「館山城」は、千葉県館山市に有った連郭式山城で、天守は望楼型三重四階で構成され、1982年に、模擬天守が造られました。1580年に、戦国大名で有った里見義康が築城し、1614年に、廃城となりました。遺構は曲輪、堀切、空堀、水堀、と先に述べた模擬天守です。

里見士10代目忠義の代の事、彼は江戸幕府老中、大久保忠隣の孫婿だった為、忠隣が本多正純との勢力争いに敗れて失脚した事から、連座され、領地を没収され、鳥取へ流されました。事のあらましは、1614年9月9日、重陽の節句の賀儀を述べるため、江戸に参府した忠義が、突然登城を差し止められ使者に改易を宣告されました。義祖父の失脚に関しての連座でしたが、いわれのない罪に嘆いたと言います。

改易と同時に館山城も廃城とされ、壊されてしまいました。その後、忠義は鳥取へ転封と言う表向きでしたが、実際には、百人扶持しか与えられておらず、非常に困窮し、辛酸を舐めました。1622年に病死し、常光寺の川原で火葬され、大岳院に手厚く葬られました。

房総の人々は、9月9日の重陽の節句を祝う行事を遠慮しているのは、里見忠義が改易された事を悼んでいる為だと言われています。安房国で10代にわたり170年間も栄えて治世を行ってきた里見氏は、領民に慕われていて、まだ若い忠義の運命を悲しんだと伝えられています。

後の1781年に、稲葉正明が館山藩主となって入りましたが、城は再建されず、2代正武が陣屋だけ造り、政治の拠点としました。現在建つ天守は、後に犬山城を模して1982年に再建された模擬天守で、館山城の元の資料が無いため、当時の天守を模す事が出来なかったそうです。この天守は、今では、館山市立博物館分館(八犬伝博物館)となり、周辺は城山公園となって観光名所となっています。

「南総里見八犬伝」は、この里見氏にまつわる悲劇の物語を後世の文豪、滝沢馬琴が28年もかけて書き上げた、全98巻106冊にもおよぶ江戸時代の戯作文芸の大作です。完成した時に馬琴は78歳の盲目の老人になっていたそうです。

忠義が死去した時、8人の側近が殉死したと伝えられていて、忠義とともに葬られ、「八賢士」と讃えられました。主君に殉じた8人の忠臣と言う事から、「南総里見八犬伝」の八犬士のモデルと言われています。

今でも、城山の東南あたりの急な山道を下った場所に、「うばがみさま」と呼ばれる八賢士の墓が有り分骨され、祀られているそうです。わずか29歳で亡くなってしまった忠義ですが、家臣に慕われていた名君でした。現在でも、「八犬伝」上演の際は、出演者がお参りするそうです。