「高知城」は高知県高知市に有る南海道隋一の名城と謳われる平山城です。関ヶ原の戦いで武功を挙げた山内一豊が掛川城から転封し、初めは長宋我部氏の居城であった浦戸城に入りました。しかし、浦戸は城下町を造るには狭い為、浦戸湾に面した要害の利が有る大高坂山に新しい城の場所を決めて本丸を造り、城下町を整備する為に鏡川、江の口川の治水工事も同時に進めました。その辺りは湿原広がるデルタ地帯で工事は難しかったようですが、長宗我部氏も苦労した治水に成功し後年まで残る名城と城下町を造り上げました。

土佐の猛将、長宗我部氏が治めていた土佐に、山内一豊が入国した為、領民はよそ者と言わんばかりに新しい藩主に反発します。その反発を押さえ込む象徴として高知城は建築されました。反発を抑えるのは簡単ではなく、長宗我部家の遺臣、竹内惣右衛門を中心とする一領具足たちは、浦戸城の引渡しを拒否して長宋我部盛親に土佐半国を与えて統治させる事を要求しました。

これを浦戸一揆と呼び、気の荒くて体力がみなぎる一領具足たちは普段漁や農作業をして生計を立て、戦が有ると傍らに置いていた武器を持って駆けつける荒くれ者の集まりで、一豊は制圧に手を焼きました。失敗すると山内家はお取り潰しです。彼は弟、康豊を鎮圧に派遣して攻撃や説得に当たらせましたが進まず、遺臣側は断固拒否し死ぬことも厭わない様子で浦戸城に篭城して抵抗の限りを尽くしました。膠着状態が続きましたが城内に内通者が居たため、あえなく開城させられ降伏しました。その後273人の一領具足が斬首され、その首は大阪の井伊直政のもとへ送られたと言われています。

その後も一揆は起こりますが、やがて制圧され山内一豊の家臣は上士、長宋我部家家臣は郷士と土佐独特の身分制度が生まれて、この制度への反発が鬱積して幕末へ流れていきます。坂本龍馬は郷士で土佐独特の身分制度に疑問を持ち、それに賛同する郷士たちと共に新しい世の中を目指したのだと言われています。

1727年の高知大火で焼失後再建しましたが、その後の空襲や廃城令を逃れて、本丸全体の建築物が石垣を含めて現存する城は日本で高知城だけです。特に山内一豊と正室の千代が暮らした本丸御殿は、日本で唯一つ完全な状態で残る書院造りの貴重な建築物です。一豊はコツコツ小さな武功を積み上げて、内助の功で有名な正室の助言で功名を上げてきた武将ですが、建築に関して美的才能が有ったらしく、高知城には様々なこだわりが見られます。天守だけではなく多聞や狭間塀など15の建物が重要文化財に指定されています。