「高遠城」は長野県伊那市に有る平山城で「兜山城」とも呼ばれています。 1545年頃、この辺りを治めていた高遠氏を武田信玄が攻略し、改築したと言われています。

築城年は諸説有り明確では無く、要害として三峰川の断崖を背にして本丸が造られ、それを囲むように二ノ丸、三ノ丸が造られた「後堅固」と呼ぶ縄張りで城を守りましたが、信長に攻められわずか1日で落城しました。他の城と同じく1872年に廃城され遺構として石垣と土塁、空堀や門が残ります。

曲輪はすべて空堀で区切られた戦国時代特有の信玄が指揮した流儀で造られていましたが、残念ながら現在は埋め立てられています。 国の史跡で今では桜の名所として名を馳せ、明治になって植えられた「タカトオコヒガンザクラ」が春になると城跡を埋め尽くすように咲き乱れて、まだ雪を残す中央アルプスを背景に目を奪われるような景観となっています。

信玄には井上靖が書いた「風林火山」では於琴姫と呼ばれる側室が産んだ「松姫」と言う美貌で名高い娘が居ました。松姫7歳の時に信長の長男、信忠12歳と婚約し、いわゆる政略結婚の約束を親同士が交わしたのですが、形通りではなく文などで二人の交流も有ったようです。しかし松姫11歳の時、京を目指す信玄が三方ヶ原で家康と戦い、将来の義父で有る信長が家康側に援軍を送った事で婚約は解消されてしまいます。

その後、松姫は兄の庇護を受けながら高遠城下の屋敷で暮らしていましたが、1582年に信長が攻め入って来ました。 松姫は兄の娘3人を連れて今の東京都八王子に有る寺へ逃げ込み隠遁生活を送ります。 高貴の姫ながら真冬に幼い姫たちを連れた逃避行は難渋を極めたでしょう。

その後、松姫の兄は城の明け渡し等を求めた織田信忠の使いの耳鼻を削ぎ落とし降伏に応ぜず、わずか3000の兵で籠城し、信長の命を受けた信忠が高遠城約2万もの兵で囲み降伏を迫りますが徹底抗戦しました。兄は戦死しその9日後に武田家は滅びます。

その後の松姫は八王子での逃避生活を経て金照庵へ移り、さらに心源院で出家して信松院で穏やかに生涯を終えるまで、婚約者だった信忠への愛を貫き通しました。一説では武田氏滅亡後、信忠は松姫を迎え入れようとしたと言われています。しかし本能寺の変が起こり信忠は自決してしまいます。

松姫は気丈に姪達を育て、さらに近隣の子ども達への手習いを教えたりして地元に根付き旧臣達はもちろん、その土地の人々からも大変慕われました。また絹織りに長けていたので松姫の織った織物が今も「八王子織り」として残っています。

「信松院」の名は父、信玄からか婚約者信忠が由来か、あるいは両方からかもしれず情の深い一途な松姫の心情が伺えます。家康は天下統一後に尊敬していた信玄の娘が、八王子で暮らしている事を知ると寺領を与えたりして庇護し、折に触れ消息をたずねていたそうです。松姫は皆に慕われ、その気高い姿と心は今も語り継がれています。