「鬼ノ城」は神籠石式山城で、天守が造られた形跡は無く、築城主は大和朝廷説が有力と言う伝説の域を出ていません。築城年は7世紀後半頃と推測されています。 標高約400mの鬼城山に築かれていて、全周は2.8kmの城壁を持ち東西南北に4つの城門と6つの水門を設け、全国的にも珍しい角楼は防衛効果を高める為のもので、食糧貯蔵庫跡や狼煙台、水汲み場まで設置して有り侵略に遭った時の民の避難場所の役割も有ったようです。

岡山県の吉備津神社に伝わる「吉備津宮勧進帳」によると、朝鮮半島からやってきた異形の皇子は「双眼爛々として虎狼のごとく、蓬蓬たる鬚髪は赤きこと燃えるがごとく、身の丈一尺四寸にも及ぶ」と記され、その「温羅(ウラ)」が鬼ノ城城主となっています。 温羅が都への船の積み荷を略奪したと濡れ衣を着せ、朝廷は何度も討伐しようとしますが温羅は戦略に長けていていつも追い返されていました。そこで吉備津彦命が討伐に差し向けられ激戦の末とうとう温羅を倒しました。桃太郎伝説の下敷きとなっている話です。

しかし実際には阿曽郷の神職の娘、阿曽媛を妻にし大事にして「吉備の冠者」と呼ばれ地元民にも親しまれた「温羅」の死を吉備国の民は嘆き悲しみました。 吉備津彦命は備中中山にある壮麗な「吉備津神社」に祀られていますが、反面、温羅は神社の釜にその名を残しているだけです。

しかし温羅に縁が有る神社があちこちに多数現存している事から考えると、朝廷の手前表立って温羅を祀る事は出来ませんでしたが、それでも温羅は慕われ手厚く祀りたいと地元民が思っていた事はよく伝わってきます。

月日が流れ温羅の居城で有った「鬼ノ城」の存在も忘れられて地元の人々の間では「山の上に大きな城跡がある。」と時々語られる程度になっていました。それが全くの偶然の山火事によって遺構が発見され、民間の熱心な研究家によって調査が始まったのが1970年で、さらに本格的な学術調査が1977年から始まりました。城内には湿地に生える希少植物などの保護対象となる植物も多く、自然保護の観点から調査はなかなか進みませんが結果が待たれます。

鬼ノ城は663年の白村江の戦いで日本が敗れた後に唐や新羅からの侵攻に備えて造られた説が有力です。日本書紀には西日本の要所に12カ所の山城を築いたと記録していますが、鬼ノ城については記載が無く謎が深まるばかりです。 その為、史書に記載が無く12の古代山城に該当しないため鬼ノ城は「神籠石式山城」へ分類されます。大がかりな復興作業を行っており、西門と角楼、土塁が完成しています。古代山城の復興は珍しくそれは石垣や土塁が昔の姿で残っていた為、復旧しやすかった事が理由です。